■文楽を見てきた |
■国立劇場小劇場で文楽を見ました。カブキはここ数年毎月見ておりますが、文楽はほぼ初めてです。人形浄瑠璃。
ほぼ、というのは、以前、横浜のKAATに杉本文楽を見に行ったことがあるのですが、えー、開演時刻を二時間早く間違えて着いてしまい、慣れない横浜の街での二時間のつぶし方が分からず体力を消費してしまい、上演中は寝てた、という重大インシデントがありました。
ですが、まあ実際、ノーマル文楽を見るのは今月が初めてです。
■2/2の土曜日は第三部、『鶊山姫捨松』『壇浦兜軍記』。雪責と琴責。翌2/3の日曜日は『桂川連理柵』。
パンフレットは六百円くらいで、しかもミニ床本のおまけつき。床本といっても、『笑点』の題字みたいな筆文字がびっしり並んでるやつじゃなく、普通の明朝体で印刷されてるので安心です。
■前述のとおり、歌舞伎は見てるけど文楽は初めてなので、うん、まず、やっぱりカブキとの違いから入るよね。定式幕が上手から開くんだ、とか、花道がないんだ、とかさ。で、あと、“床”の義太夫&三味線が、物語の、というか、舞台進行のイニシアティブを大きく握ってるんだなあ、ということが分かった。カブキだと、ほら、あくまで生身の役者が主で、義太夫&三味線は従というか副というかそういう感じじゃないですか。でも文楽は義太夫&三味線と、人形&人形遣い、そのどっちが主でどっちが従(副)か、があまり明確な区別がなくわりと曖昧で、そこが面白いとこだと思った。
■文楽では人間が人形を動かすわけなんだけど、もちろんただ身振り手振りのレベルで動かしてるわけじゃなくて。ちゃんと人形がキャラクターの心情を表現するわけですよ(って当たり前のこと書いてますけど)。
たとえば、「雪責」でいうとさ、庭で折檻される中将姫が、奴の持つ割れ竹を見上げるときの絶望と恐怖が入り混じってはかなげな、それでいてどこか凜としたとこもある表情とかさ、もう、ほんとに、なんというか、人形に人間らしいなにかが宿る瞬間があって、そこに素直に「すげえ」と感じる。その瞬間が文楽。たぶん。
■では、「は? でも演技するんだったら、人形じゃなくて最初から生身の人間が芝居すればいいやし」と中学の同級生に沖縄弁で云われたら、どう返答しよう。
それはたぶん──、生身の役者ってのは自分の姿かたちと声から逃れられないじゃないですか。芝居の登場人物の心情を表現するにも、その「姿かたち+声」というフィルターをいったん通さないといけない。
でも、文楽では人形が演ずるので、「姿かたち+声」というフィルターを通さない、そのぶん純粋な表現ができるから……なのかな、なんて考えております。いまのところ。
しかし、中将姫の折檻、見てらんないっすよー、あれは、かわいそうで(そう、人形に「かわいそう」なんて気持ちを抱けちゃえるんですよね)。
■で、阿古屋の琴責。年末に児太郎と玉三郎の阿古屋を見たのは記憶に新しいところですが。
これがさー、もうね、三曲の演奏がすごい。阿古屋の人形が床の演奏に合わせて楽器を弾くんだけど、人形と演奏がシンクしてるんですよ。シーンークーすーるー♪んですよ。DA PUMPの「if…」ぐらい。
三味線のときなんか、阿古屋の人形の指までリアルに動いている。日清紡のCMみたい。犬と人間の二人羽織のやつね。でも阿古屋は二人羽織じゃないんだぜ。イヤホンガイド曰く、そういう「三味線弾いてる動きを表現する用」の手首を付けるらしい。
そう、岩永もいいんだよなー。悪役なのに、ちょっと滑稽みとか、なんなら愛嬌もあって。阿古屋を見ればいいのか、岩永を見ればいいのか、迷う瞬間があるくらい。
■そんで翌2/3は『桂川連理柵』で、はしょりますがこちらも自分なりに楽しく見られました。
■で、昨日2/9は、虫歯を治したあと、急遽第三部を再見しました。これは予定外の観劇&出費だったのですが笑、もう一度見たくなってしまったので。2/2は下手の席だったけど、2/9は上手の席だったので、床での三曲の演奏がより間近に聞けました。
■ただ今回は、どの日も後ろの席だったので、人形の表情をもっと近くで見たいなあ、という欲が出てきました。次はもっといい席が買えるようにがんばろう。
あ、2/17は第二部『大経師昔暦』見てきます。
■最後にもうひとつ。たとえば平成中村座とか新春浅草歌舞伎では、女子トイレにWindows95の発売日ぐらい行列ができるんですが、国立劇場小劇場での文楽では男子トイレのほうの行列が長いんですね。トイレの外にまで行列が出来てました。
ほぼ、というのは、以前、横浜のKAATに杉本文楽を見に行ったことがあるのですが、えー、開演時刻を二時間早く間違えて着いてしまい、慣れない横浜の街での二時間のつぶし方が分からず体力を消費してしまい、上演中は寝てた、という重大インシデントがありました。
ですが、まあ実際、ノーマル文楽を見るのは今月が初めてです。
■2/2の土曜日は第三部、『鶊山姫捨松』『壇浦兜軍記』。雪責と琴責。翌2/3の日曜日は『桂川連理柵』。
パンフレットは六百円くらいで、しかもミニ床本のおまけつき。床本といっても、『笑点』の題字みたいな筆文字がびっしり並んでるやつじゃなく、普通の明朝体で印刷されてるので安心です。
■前述のとおり、歌舞伎は見てるけど文楽は初めてなので、うん、まず、やっぱりカブキとの違いから入るよね。定式幕が上手から開くんだ、とか、花道がないんだ、とかさ。で、あと、“床”の義太夫&三味線が、物語の、というか、舞台進行のイニシアティブを大きく握ってるんだなあ、ということが分かった。カブキだと、ほら、あくまで生身の役者が主で、義太夫&三味線は従というか副というかそういう感じじゃないですか。でも文楽は義太夫&三味線と、人形&人形遣い、そのどっちが主でどっちが従(副)か、があまり明確な区別がなくわりと曖昧で、そこが面白いとこだと思った。
■文楽では人間が人形を動かすわけなんだけど、もちろんただ身振り手振りのレベルで動かしてるわけじゃなくて。ちゃんと人形がキャラクターの心情を表現するわけですよ(って当たり前のこと書いてますけど)。
たとえば、「雪責」でいうとさ、庭で折檻される中将姫が、奴の持つ割れ竹を見上げるときの絶望と恐怖が入り混じってはかなげな、それでいてどこか凜としたとこもある表情とかさ、もう、ほんとに、なんというか、人形に人間らしいなにかが宿る瞬間があって、そこに素直に「すげえ」と感じる。その瞬間が文楽。たぶん。
■では、「は? でも演技するんだったら、人形じゃなくて最初から生身の人間が芝居すればいいやし」と中学の同級生に沖縄弁で云われたら、どう返答しよう。
それはたぶん──、生身の役者ってのは自分の姿かたちと声から逃れられないじゃないですか。芝居の登場人物の心情を表現するにも、その「姿かたち+声」というフィルターをいったん通さないといけない。
でも、文楽では人形が演ずるので、「姿かたち+声」というフィルターを通さない、そのぶん純粋な表現ができるから……なのかな、なんて考えております。いまのところ。
しかし、中将姫の折檻、見てらんないっすよー、あれは、かわいそうで(そう、人形に「かわいそう」なんて気持ちを抱けちゃえるんですよね)。
■で、阿古屋の琴責。年末に児太郎と玉三郎の阿古屋を見たのは記憶に新しいところですが。
これがさー、もうね、三曲の演奏がすごい。阿古屋の人形が床の演奏に合わせて楽器を弾くんだけど、人形と演奏がシンクしてるんですよ。シーンークーすーるー♪んですよ。DA PUMPの「if…」ぐらい。
三味線のときなんか、阿古屋の人形の指までリアルに動いている。日清紡のCMみたい。犬と人間の二人羽織のやつね。でも阿古屋は二人羽織じゃないんだぜ。イヤホンガイド曰く、そういう「三味線弾いてる動きを表現する用」の手首を付けるらしい。
そう、岩永もいいんだよなー。悪役なのに、ちょっと滑稽みとか、なんなら愛嬌もあって。阿古屋を見ればいいのか、岩永を見ればいいのか、迷う瞬間があるくらい。
■そんで翌2/3は『桂川連理柵』で、はしょりますがこちらも自分なりに楽しく見られました。
■で、昨日2/9は、虫歯を治したあと、急遽第三部を再見しました。これは予定外の観劇&出費だったのですが笑、もう一度見たくなってしまったので。2/2は下手の席だったけど、2/9は上手の席だったので、床での三曲の演奏がより間近に聞けました。
■ただ今回は、どの日も後ろの席だったので、人形の表情をもっと近くで見たいなあ、という欲が出てきました。次はもっといい席が買えるようにがんばろう。
あ、2/17は第二部『大経師昔暦』見てきます。
■最後にもうひとつ。たとえば平成中村座とか新春浅草歌舞伎では、女子トイレにWindows95の発売日ぐらい行列ができるんですが、国立劇場小劇場での文楽では男子トイレのほうの行列が長いんですね。トイレの外にまで行列が出来てました。